2019年02月

 神様が人を創造された時、彼を祝福してアダムと名付けます。この一文は、第五章の最初に述べられています。神様が人を創造した説明が述べられている第一章で男性の名前が出てきても良いのに、五章で初めて名前が明らかになります。

 よく、夫婦のアダムとエバを耳にしますが、初めて読んだとき、どこにアダムが出てくるのかと疑問でした。聖書に興味を持ってもらえるよう、工夫されています。次の章は良く耳にするノアの箱舟です。
 よく耳にするということはそれだけ世間では評判があり、興味がそそられ、続きが気になり一生懸命、読んでいきます。聖書は上手に出来上がっていると感じました。人は退屈すると続きは気にならなくなり、読まなくなっていきます。読んでいくと過激な部分がありますが、それも続けて読んでもらう為かもしれません。聖書は神様が書かれたと言われています。しかし、全て読めば、明らかに人間が書いたと断言できます。

 創世記、第五章に登場する人物は驚くほど寿命があります。
 アダムは百三十歳でセツが生まれ、九百三十歳まで生きました。
 セツは百五歳でエノスを生み、九百十二歳まで生きました。
 エノスは九十歳でカイナンを生み、九百五歳まで生きました。
 カイナンは七十歳でマハラレルを生み、九百十歳まで生きました。
 マハラレルは六十五歳でヤレドを生み、八百九十五歳まで生きました。
 ヤレドは百六十二歳でエノクを生み、九百六十二歳まで生きました。
 エノクは六十五歳でメトセラを生み、三百年、神と共に歩み、他に男の子と女の子を生みました。エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたのでいなくなりました。
 メトセラは百八十七歳に男の子レメクを生み、他に男の子、女の子を生みました。メトセラは九百六十九歳まで生きました。
 レメクは百八十二歳で男の子を生みます。「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働く我々を慰めるもの」と言って、男の子をノアと名付けます。レメクは他に男の子と女の子を生み、七百七十七歳まで生きました。
 上記に書いた人物は全て男性であり、メトセラとレメクのように男児を生んだ後、他に男の子と女の子が生まれています。
 ノアは五百歳でセム、ハム、ヤペテを生みました。

 寿命の話も「物語」と断言できます。長寿とはいえ、とっくに肉体が老化しきっている時に子供が生まれ、幽霊ならともかく生身で千年近くも生きることは絶対に出来ません。
 エノクは神様によって殺されてしまったという意味でしょうか。神様と歩み寄ったのに、他の人に比べるとかなり短命です。神様がエノクを取ったように述べられていますが、お気に入りだから殺したということでしょうか。神様の側に来てほしいということだったのでしょうか。全て不可解です。

 聖書に出てくる数字は七が多いと思います。レメクの寿命が最後に出てくるのも、目が留まりやすいからでしょう。安息日も七日目です。神様が創造し終え、休まれた時も七日目です。創世記の第四章にも復讐の場面で、七が重要のように書かれています。神様を敬う意味で七を多く使っているような気がしました。あとは、七のみ強調していれば、心に残りやすいからかもしれません。

 聖書に登場する人物は非常に多い。

 カインが罪を犯し、ノドの地に住んだ後の話です。
 カインは結婚し、子供のエノクが生まれます。カインは町を建て、その町の名を子供の名前と同じエノクと名付けました。

 エノクの子はイラデ、イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子は男児レメクを生みました。
 レメクは二人の妻、アダとチラをめとります。
 アダは兄ヤバルと弟ユバルを産みます。兄ヤバルは天幕に住み、家畜を飼う者の先祖となり、弟ユバルは琴や笛を執るすべての者の先祖となりました。
 チラは兄トバルカインと妹ナアマを産み、兄は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となりました。

 今は意味がなさそうですが、後に関係しそうなので全て書きました。

 夫レメクは二人の妻にこう言います。
「私は受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷の為に、私は若者を殺す。カインの為の復讐が七倍ならば、レメクの為の復讐は七十七倍。」
 カインの復讐の為に、自分たちが殺されるかもしれないという恐怖からでた言葉の様に感じました。しかし、なぜ殺すことが前提なのかは分かりません。正当防衛で相手を殺してしまうということでしょうか。カインがした罪は子供たちに全く関係ありません。子供たちが産まれる前の話です。しかし、親がしたことで復讐心から子供にまで危害が及ぶかもしれないと子供たちも怯えている様子です。子供にまで危害を及ぼすのは断固許さないということでしょう。
 
 最後にアダムとエバは再び身ごもります。神様がアベルの代わりに一人の子を授けられたと感謝します。名前はセツと名付けました。セツにも男の子エノスが生まれました。
 子供は一人一人の特徴があり、セツはアベルの代わりにはなりません。アベルが生きていたとしてもセツは生まれていたはずです。




 人は理由、目的、感情など様々な動機で行動しています。

 創世記の第四章、嫉妬によりカインが弟アベルを殺してしまいました。
 これについては、神様にも罪はあるかと思います。毎日、汗を流して作物を育てたお供え物を顧みず弟アベルの羊のお供え物のみ顧みられました。神様が心から両方を顧みられたら良かったのです。カインは罪を犯さずに済んだはずです。また、妬みでアベルは死なずに済みました。

 カインがアベルを殺してしまった後、神様の裁き方は寛容でした。
 神様はカインにアベルの居場所を尋ねます。カインが「知りません、私は弟の番人でしょうか。」と答えます。
 神様がカインをさらに問い詰め、裁きます。
「あなたは何をしたのです。アベルの血の声が土の中から私に叫んでいます。あなたは呪われてこの土地を離れなければなりません。あなたが土地を耕しても、土地はあなたの為にもはや実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう。」
 神様はその土地から追放するのみで、カインを殺そうとはしません。毎日、土地を耕し、肥沃な土地になっているはずです。その土地から離れることはカインにとって最大の罰でしょう。

 カインは後悔し、神様に正直に接します。
「私の罪は重くて負いきれません。あなたは、私を追放されました。私はあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。私を見つける人は誰でも私を殺すでしょう。」
「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう。」
 神様はカインに告げた後、カインが殺されないように一つのしるしを彼につけられます。
 カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住みました。
 
 カインは自分が殺されても当然だと嘆いています。「一つのしるし」とは、カインが殺されないように守るため、神様が授けた力のようなものだと思います。
 神様がカインを殺さなかったのは、カインが死んだところで、アベルが生きかえりません。カインは反省しており、無駄な犠牲をだしたくなかったのでしょう。

 これは聖書の通り、本物の神様は心から反省していれば、許して貰えるかと思います。心から反省していれば、行動や言動に表れます。

 エデンの東、興味深いです。私は楽園の外にある東のことと思います。エデンの園からみると東にある地だと思っています。

 さて、ここで一つの疑問があります。
 創世記、第四章に母親エバと父親が登場しておりません。重大事にも関わらず、登場しません。両親の心情や行動はあえて触れないでいたのでしょうか。
 今回は神様が事件を片付けた有様です。両親について述べることは避けているように思います。この部分を書いた人は神様に気を取られ過ぎてしまい、両親のことは気にも留めなかったのかもしれません。「神様が言うことは絶対だ。」という感覚で、神様に全てを任せたようにも感じます。
 
 私は創世記が物語と思っていますが、教会は「神様に全てをゆだねなさい。」と説明しそうです。「聖書に登場する神様に逆らうことはできない。」という解釈をキリスト教圏はしていたに違いありません。これを利用して免罪符を発行した聖職者たちの横暴さが目に浮かびます。金を巻き上げる聖職者たちこそ、大罪人です。神様は、お金も物も必要ありません。

 嫉妬は様々なことから生じてきます。嫉妬する方もされる方も心をむしばまれるはずです。または、どちらかが命をつきてしまうこともあるかもしれません。この点では怒りも同じ事が言えるかもしれません。

 創世記、第四章でエバは子供を二人の男の子、カインと弟のアベルを産みます。カインは土を耕し、アベルは羊を飼います。ある日、カインとアベルが神様に供え物をします。カインは地の産物、アベルは羊を捧げます。神様が供え物を顧みられたのはアベルが捧げた羊のみです。カインはこれに対し、大いに憤り、顔を伏せました。
 神様はカインにこう言います。
「なぜあなたは憤り、顔を伏せるのか。正しいことをしているならば、顔をあげなさい。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」
 カインは弟アベルを野原に誘い、弟を殺してしまいます。

 カインがアベルを殺してしまったのは嫉妬です。カインがした行動は無責任かつ短絡的です。父親も母親も非常に悲しんだことでしょう。

 愛情をそそがれている、才能や物品を持っているからと嫉妬するべきではありません。物は贈り物として貰ったか、その人が欲しくて手にするまたは過去に安く買ったものか、など持ち方は様々です。才能はその人の特徴であり手を伸ばしても届くようなものではありません。

 お金を死んでも余るほど持っているのに心からの慈悲や情けもない人は嫉妬や恨みを買って当然でしょう。周りを見て、出来ることからしていきましょう。身内で本当に困っている人がいれば、身内を支援しましょう。今にも泣きそうな人たちを放って置いてはいけません。これは身内だけではなく他人にも言えます。

 愛情は金銭や物ではありません。愛しているから、相手が欲しい物を与えるというのは間違ってはいないと思いますが。しかし、物を与えたとしても、心から愛していなければ意味がありません。物で誤魔化しているだけです。愛していれば、その人が本当にしてほしいことをしてあげましょう。目が飛び出るほどの高価な物が欲しいとなれば、話は別です。悩みを聞いて欲しそうにしていれば共に解決の道を考え、行動するといった日常的なことです。

 カインとアベルの関係、あらゆる人間関係を表しています。ひいきをされた時、才能があるからと褒められる人がおり他の人が努力しても辿り着かなかった場合や片想いで相手が別の人と付き合った時など、嫉妬されやすいかと思います。嫉妬される側は嫉妬されていることを見抜く力が必要です。相手の言動、行動、些細な事で勘づくことができます。自分の身を守ることや、相手の感情を嫉妬から違う方向に変えることが出来るかもしれません。

 神様はカインの贈り物が気に入らなかったのではなく、心が無かったことを見抜いていたのかもしれません。神様が人の心を見通して告げていたはずです。
 贈り物は盛大の方が良いとかではなく、相手は何が欲しいのか考え、心から贈る必要があります。心無しの贈り物は相手を苛立たらせるだけだと伝えようとしたのかもしれません。

 しかし、これはカインの捧げ物を顧みなかった理由にはならないと思います。アベルは群れのういごと肥えた羊、カインは地の産物と聖書に書かれています。アベルは盛大な贈り物をして、カインは適当に贈り物を探してきたように書かれています。
 聖書に出てくる神様、羊が殺されて可哀相にと同情し、アベルの捧げものを顧みたのかもしれません。または神様が羊を要望していたか。カインは憤っていたことから、神様は励まそうとして言葉を掛けたとは思います。「正しいことをしているならば、顔をあげなさい。」ここから言ったことは全て余計です。なぐさめようとしているのに脅しは必要ありません。

 カインも神様を尊敬していたはずです。捧げものを顧みられなかったことはどれだけ衝撃を受けたことでしょう。尊敬する人に認めてほしいという気持ちで心から贈り物を贈ったはずです。それを無下に見捨てられたような発言をすればアベルに対して嫉妬してしまうのは当然です。
 カインは羊を持っていません。神様が欲しいとしても、ないものはない。アベルに譲って欲しいと頼めば良かったのかもしれませんが、自分が育ててきた作物が一番だと判断したからでしょう。または、兄弟ですから共同で捧げても良かったように思えます。

 本物の神様は余計ないざこざは起こしたくないはずです。ここまでして、捧げものは必要ないと思います。

 人は興味がなくても、誘惑されば、悪いことにも手をのばしてしまうかもしれません。後で大変なことになるかもしれないのに、今は楽だからと嘘をつくのと同じように。場合によって、罪になるかどうかは大変難しいように思えます。

 神様が造った二人の人間がヘビにそそのかされて、食べてはいけないと命じた善悪の木を食べました。神様がヘビと二人の人間を裁きます。
 
 創世記、第三章の二十節、夫が妻にエバという名前を付けます。
 二十一節、神様が二人にようやく皮の着物を造り、着せます。
 二十二節、神様がこう言います。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。これにより、命の木からもとって食べ、永久に生きる人となるかもしれない。
 二十三節と二十四節、神様は二人をエデンの園から追い出し、ケルビムと回る炎のつるぎを置いて、命の木の道を守らせました。

 服は最初から着せてあげましょう。叱られた後では、気分は良くありません。神様だから、感謝しなさいと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はその考えに違和感があります。強い者が弱い者に手下の様に扱い、威圧的に接し、相手の身体または心を傷つけた後に、心から反省しているわけではなく、関係維持の為に、その場しのぎの謝罪をしているかのように感じます。
 洗脳の怖さを伝えているように思えました。

 最後、服を与えておきながら、二人を楽園から追い出します。服は餞別として造っただけのような気がしてなりません。追い出しておきながら、いつまでも見守っている気持ちでしたことと思います。しかし、これは薄情だと感じました。自分と同じ知恵を持ったから許せない、その腹いせにすぎないと思います。命の木を食べられるとまずい、というならば最初から、善悪を知る木と命の木を置く必要性がないように思えます。
 餌を目の前に置いて、我慢させる。これは虐待です。
 そそのかした側だけが悪いわけではなく、聖書に出てくる神様にも罪があります。

 なお、二十二節の「われわれ」は聖書に登場する神様のことかと思います。ケルビムは後に詳細が述べられておりますが、私は化け物のように感じました。

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