2019年02月

 神様の言いつけを破った罰として、人間は罪な生き物となったようですが、これはまるで脅しの教育に感じました。体罰はありませんが、精神的な面で良くはありません。確かに人間は、完璧な人は一人もおりません。しかし、産まれた時から罪があるという教えは間違っていると思います。子供にこのようなことを教え込むべきではありません。
 赤ちゃんに全員、罪はありません。癒しの顔で両親にとっては天使のような存在のはずです。特に母親は約一年、お腹に子供が宿り、激痛の中で産みます。母親は産まれた後も体調は優れておりませんが、赤ちゃんに癒されて頑張ることができます。

 創世記、第三章の十四節、ヘビが二人に実を食べるよう、そそのかしたので、一生、地を腹で這う。十五節、彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くと書かれています。この二節は神様が言った言葉です。
 将来、イエス様が十字架に架けられることを意味しているそうです。イエス様が死ぬことによって、人間が犯した罪を贖いました。私はこの解釈に頭をひねっています。イエス様は生贄になったということです。悪いのはヘビであって、イエス様が悪いわけではない。何故、イエス様が償わなければならないのでしょうか。
 イエス様が神の子で人間が犯した償いの為に産まれてきたと言われています。イエス様の処刑はローマに弾圧されただけだと思います。

 十六節、神様が女性にこう告げます。子供を苦しんで産み、夫を慕う。夫は妻を治める。
 十七節から十九節、神様が男性にこう告げます。地はあなたによって呪われた。そのおかげで、一生苦労して地から食物をとる。地は男性の為に、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べる。苦労してパンを食べ、最後は土から造られた為、土に帰る。
 
 二人が善悪を知る木を食べなければ、このようにはならなかったはずだと神様は怒っているようです。しかし、食べてはいけない木をわざわざ置きますか。人間を試すにしても自分で造ったのですから、こうなることぐらいは予想できていたはずです。
 ヘビ(悪魔)が悪いだけではありません。ヘビが善悪を知る木を二人に食べるようにすすめなくても、他の獣たちが人間に実をとってくるかもしれません。
 ヘビは神様がわざとエデンの園に置いたのかもしれません。ならば聖書に出てくる神様、この悪魔と同罪です。

 「女性が夫を慕い、夫は妻を治める。」この部分、良い方向に向かうと問題はないと思います。悪い方向へ向かうと最悪な関係です。楽園には二人しかいないから言えた言葉です。

 「女性が夫を慕う。」男性は戦に出ることができる体質です。女性は月経もあり、身ごもります。子供を守るための生きる力と出産する体力はありますが、腕力などはなく、戦いの力は男性よりもはるかに劣っています。妻を守る夫に感謝をしましょう、という意味で述べたと思います。しかし、夫は妻が意見を言うのが気にくわない。妻の望みをきかないとなれば、良い関係とはいえません。これは基本的な立場が同等であってこそ、成り立つ関係です。

 「夫は妻を治める。」先程、述べたように男性の体つきは女性よりも大きく、女性を守るような造りにはなっています。そう言った意味では治めるが相応しいでしょう。しかし、妻をいじめてはいけません。言うことを聞かす為に怒鳴り、殴ってはいけません。
 
 二つ組み合わせて考えてみれば、夫婦はお互い同じ位置で謙虚かつ冷静に話し合えてこそ成り立つ関係です。片方の愛が冷めていれば、面白くありません。子供にとっても可哀相です。場合によっては、人生の無駄になってしまう気がします。

 もう一つ、戦は男性の役目とは思っておりません。男性でも、戦争へ行けば、亡くなってしまいます。ですから、絶対に戦争があってはならない。これも夫婦と同じことが言えます。夫婦だけではなく、職場、学校など、あらゆる場面で人間関係にいえることだと思います。理想ですが、暴力や脅迫で威圧的に訴えるのではなく、同じ位置から対等に接することが出来れば平和になります。そうはなかなかいきません。一人が快く接したとしても相手に思惑があれば、快い方が攻められてしまう為、必然的に防衛力を高める軍事力が必要になります。つまり、国の支配者が平和主義になってくれると世界もがらりと変わると思います。早く、世界が平和になることを祈るばかりです。
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 聖書は書かれたことが必ず成就するようにできているそうです。実際に預言が当たったところもあるのでしょうが、原罪については作られた物語か最初が肝心ということで無理に預言として成就させたような気がします。
 未来を知らない人間は予言が当たると素晴らしいと認識してしまいます。そこから、その人が言うことは間違いないと全て信じきってしまう傾向があるように思えます。

 創世記、第三章は「原罪」について述べられています。
 ヘビは女性が善悪を知る木の実を食べるように促します。女性は神様がその実だけは食べてはならないと命じられたことをヘビに伝えます。神様は死んではいけないから、食べてはいけないと教えられたことをそのまま伝えました。ヘビはまた食べるようにすすめます。女性はとうとう、その実を食べ、夫にも与えました。すると、二人は自分たちが裸でいることが恥ずかしいと初めて認識しました。
 神様がエデンの園にいらっしゃると二人は慌てて逃げます。神様は二人の行動から実を食べたことを悟りました。 

 ここに登場するヘビはサタン(悪魔)と言われています。楽園に悪魔がいる事態が不思議です。神様が守っている楽園に侵入者がいれば、対処するでしょう。神様は全知全能です。侵入者に気が付かないはずがありません。
 悪魔が人間をそそのかし、人間が危ない目にあっているならば、悪魔を追い払うはずです。
 神様が人間を試そうとしたのかもしれませんが、聖書に登場する神様は随分といじわるなようです。

 神様が二人を裸でおらせたのは、善悪の木を食べたかどうかを確かめる為だったのでしょう。しかし、これは明らかにわいせつです。善悪の木を食べれば、人間が賢くなるのがまずいというならば、せめて最低限のことは教えてあげましょう。
 「善悪の木を食べると死ぬ」というのは、人間は自分で物事が判断できるようになれば、神様の言いつけを守らず、愚かな行動にでてしまう、ということでしょう。

 聖書は神様が著者だと言われています。善悪の木を食べたならば、せめて聖書の言うことを聞いて下さい、と言わんばかりです。
 しかし、これは物語にすぎません。聖書の言うことを聞いて、良いことばかりではありませんでした。


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 創世記は物語として、単純に面白く感じていました。しかし、読み進めていくと、罪な書物と感じるようになりました。

 第二章の初めに神様が第七日の過ごし方を述べられています。第一日から第六日まで、地球を創りました。創造し終えた第七日目、神様は休まれました。神様は第七日を祝福し、聖別されました。この聖別が安息日の由来となっています。安息日は神様を崇める日であり、人間は何も働いてはいけませんでした。この掟を破れば処刑でした。この場面で、既に罪な書物と言えます。

 その後、神様が土のちりで男性を造り、エデンの園を設けました。造った男性を園に連れて行き、見た目も美しくて食べるに良い木、園の中央に命の木と、善悪を知る木を土から生えさせました。川もあります。神様は、園にあるどの木も食べて良いが、善悪を知る木だけは食べてならないと人間に命令します。
 次に、神様が「人が一人でいるのは良くない」と言いました。彼にふさわしい助け手を造る為に、野にあるすべての獣とすべての鳥を土で造り、造った男性のところに連れてきました。彼は神様が連れてきた動物たちに名前を付けます。しかし、彼にふさわしい助け手はいません。ふさわしい助け手を造る為に、神様が彼を眠らせて彼の骨から女性を造ります。

 一番、最後の節に二人とも裸でいたが、恥ずかしいとは思はなかったと述べられています。
 聖書に登場する神様、服ぐらいは着せてあげましょう。無知の恐ろしさを伝えようとしたのかもしれませんが、親が伝える役目もあるでしょう。神様が人間を造った親です。
 尊敬する神様が裸で常にうろつかれていたら目もあてられないでしょう。神様は人を愛しています。愛していれば人間に罪を犯すようなことをしないでしょう。表現が大げさかもしれませんが、わいせつ行為です。聖なる書物には相応しくない内容かと思いました。
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 聖書は六十六冊の本が一冊の本になったと言われています。目次を数えれば丁度、六十六個あります。

 しかし、書かれた時代は違います。聖書は神様が著者であり、人間ではないと主張する人達もいますが、これは疑問です。あくまで、人間の手で書いている為、お告げを間違えて聞くこともありえます。または、都合の良いように書き換えられているかもしれません。どちらにしろ、神様が本当にこのようなことを述べたのか、根拠はありません。

 創世記は物語と思います。
 第一章、神様が昼と夜、空と海、あらゆる植物を創った。その後、太陽と月を創り、鳥、魚、獣、家畜など地球の全てが完成した。

 神様は何でも出来そうですが、学校で勉強する科学に進化論があります。この地球は太陽から程良い距離にあります。暑すぎず、寒すぎずの好条件です。だからこそ、植物も動物も奇跡的に生息出来ています。これを神様が創造したとは思いません。あまりにも良すぎる条件であることから、「神様が創造した」と主張したくなる気持ちも分かりますが、ここは「科学」と思います。

 神様が地球を創造したとすれば、火山噴火や地震のような自然災害は起こらないと思います。神様が怒って自然災害を引き起こすと主張する人たちがいますが、無理矢理、つじつまを合わせようとしているだけです。
 科学的に地震や噴火の事は判明されてきています。日本で起きた東日本大震災により、原発が大変なことになりましたが、これも神様の怒りだというのでしょうか。
 大津波で亡くなった方たちは気の毒でたまりません。毎日、働き、必死に生きている人たちに掛けられる言葉ではありません。
 これから日本は、南海トラフ、東京直下型地震が差し迫っているという時に、「これは神様の怒りだ」と言えますか。神様を信じさせようと創られた物語にすぎません。

 聖書に書かれている神様は、あまりにも無慈悲です。無宗教でも神様を信じ、道徳的に良いことをしていれば、宗教など必要としないかもしれません。
 聖書の神様を信じていれば、「悪いことには手を出さないでおこう」という自制心が働くかもしれません。だからと言え、聖書を全て信じ、行動するのは危険すぎます。
 
 聖書が無くても、神様を信じる根拠はいくらでもあります。予言者でブラジルのジュセリーノさんは子供の頃、光の球が見え、予知夢を見るようになったようです。これは神様が力を貸しているはずです。日本の神社では、お参りして神様の言葉が聞ける神主さんもいらっしゃいます。まだまだ他にも信頼できる霊能者もいます。これらのことから、聖書を信じなくても「神様はいる」と自信を持てます。

 よく未開地に聖書の布教をしている人たちがいますが、聖書だけではなく幅広い知識を与える必要があります。聖書を妄信的に信じるのではなく、真実を幅広く受け入れ、じっくり考えて行動するべきです。
 

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 聖書を読んでいれば生贄思想の他に危険なことがある。

 旧約の話にあるのだが、内容は残酷である。
 要約すると、神様がある人にお告げを与えた。他の領土を奪い、処女ではない者は殺せ、男は子供でも皆殺しにせよ、女の子供と処女は奴隷にしろ。その土地にあるものは全て戦利品として奪え。こんな都合のいい話を神様が言うわけがない。

 神様に祝福され、勝った方は負けた方を殺し、奪いつくしても良い。子供を奴隷にしろ、など負けた方は人でも物扱いである。
 男であれば、子供でも殺して良い。ただの弱い者いじめだ。成長すると力が付き、反乱を恐れたのだろう。
 処女でないものは殺せ。これは男が、子供が出来た時に自分の子か、元夫の子かはっきりしないからだろう。
 植民地にしたところは何をしても良いと。自分の神を信じるもの以外はどうなっても良い。何をしても許される。これは神様を語って自分の都合のいいように書かれたもの。

 これらの思想に基づいてヨーロッパがアジアやアフリカを植民地にしていった気がしてならない。植民地を正当化する人は大勢いる。神様はこうで、ああで、全部人の為に考えてしている。ならば、なぜイスラエルの神のみ信じなさい、と言うのであろうか。他を信じれば、天罰だと言わんばかりのことが述べられている。私は沢山、神様がいると思っている。だから、イスラエルの神様もいるだろうし、日本、ヨーロッパにも沢山の神様がいると信じている。

 イスラエルの神のみ信じろという、狭い心から宗教戦争がおきると確信を持った。神様は心が広く、神様は全員、同じ考え方であると思う。聖書は良いことも書かれていると思うが、ほどほどにしないと危ないのみである。

 日本には主に仏教、神道がある。白人が日本を植民地にしようとした歴史があるが、戦わなければどうなっていたか。アジアやアフリカの様に男性、身ごもった女性、子供も惨殺されていたはずだ。今、思うとぞっとする。聖書を全て信じる人たちに伝えたいことは、今までお世話になってきたはずの神様を捨て、この聖書の通り、イスラエルの神様のみ信じなさい、と残虐行為があるにも関わらず、そう簡単に乗り換えることができるのか。

 あともうひとつ言いたいことは、占い、霊能力を使うことは禁止らしい。占いは、はまりすぎると危険だが、軽い気分でするならば良いではないか。霊能力は事件解決などに使用されている国もあり、実際に世の中の役に立っている。クリスチャンではこのようなことは魔女扱いで悪魔がよってくるとか聖書にあてはめて毛嫌いしている。私は魔女裁判で火刑になったジャンヌ・ダルクのことを思い出し、腹が立った。おまけに、霊能力を使うのは有罪判決だと聖書にしっかりとかいている。

 私は、聖書は教会や自分の都合のいいように書かれたものではないかと疑問がわいてきだした。二千年間、聖書の原本がどのように保管されていたかは知らない。万が一、昔の教皇の腹黒さが霊能者によって見透かされてしまえば、教会は一気に崩壊しそうなことだ。霊能者や占い師、星術師といった、不思議なことには恐怖を感じたのではないだろうか。
 聖書はすばらしい聖句があり、人生の糧になり、言葉によって救われた人がいるからこそ、信じきってしまい広まったのかと思う。聖書が良いというのは錯覚にすぎない。素晴らしい聖句があるがゆえに、明らかに倫理的に間違っていることも信じ切ってしまう。全て鵜呑みにして信じるのではなく、一呼吸、立ち止まって考えてみてほしい。




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